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石垣島の本-特集石垣島文庫

石垣島や八重山に関する本の特集です。
すでに著作権が切れているものを掲載しております。
著者 タイトル
中里介山
大菩薩峠 恐山の巻

      十一

  「どうしたのだね、君」
  あまりのことに、田山白雲が身近く寄って来たところのこの男に向って、かく呼びかけざるを得ませんでした。
「忘れ物をしました」
「忘れ物、何を忘れたのです」
「手形を忘れました、旅行券を」
「なるほど――」
  その手形というのは、さいぜん、現にここで、この男が懐中からさぐり出して役人に提示して見せたのを、現に田山白雲も見届けておりました。
  あの際、紛失したのか、或いはここを出て暫く行く間に取落しでもしたものか、いずれにしても、粗忽千万(そこつせんばん)の咎(とが)は免れない。隙のないようでも、若い者の手はどこか漏れるところがある。これから先、山河幾百里の関柵(かんさく)をあけて通る鍵だ。その唯一の旅行免状を取落して何になる。これではさすがの強情者も、浮かぬ面をして取って返さざるを得ない出来事だと、白雲も思いやりました。
  しかし、事実はここで役人に提示したのだから、これよりあとへ飛んで戻るはずはない。柳田平治はまず店先よりはじめて、その辺を隈(くま)なく探し求めましたけれども、ついにそれらしい何物もありません。
  柳田はついにその長剣を背中へ廻して、低い縁の根太(ねだ)の下まで探してみたけれども見出せないのです。白雲も同情して、そこらあたりを漁(あさ)って見てやったけれども、発見することができません。
  さしもの豪傑も、ここに至っていたく銷沈気味でした。
  茶店の老爺(おやじ)も気の毒がって、炉辺のござまでめくって見せたけれども、附木(つけぎ)っ葉(ぱ)と、ごみと、耳白(みみじろ)が三つばかりあるほかは何物もありませんでした。もしやと、少し下りて船頭小屋から渡し場のあたりまで調べてみたけれども、ついにそれらしい何物もありませんでした。
「もうやむを得ん」
と言って柳田平治は、腕組みをしたまま突立って、川原の彼方(かなた)を無念そうにながめました。
  居合にかかろうとする瞬間である。問題はそこだ。そこでいったん懐中へ蔵(しま)い直したはずの手形が紛失したのだ。
「どうも見えないね、君」
  白雲は慰め顔にこう言うと、腕を拱(こまね)いていた柳田平治が、
「是非に及ばんです、いや、僕が悪いのです、こちらに隙があったからです、修行が足りないからなんだ」
「過(あやま)ちというものは誰にもあるものだ、そう気を落さんで、もう一度、念入りに探し給え、拙者もたしかに、ここで君が役人に見せたのを見届けているのだから」
  再び白雲が言うと、
「いや、過ちではないです、僕のぬかりなのです、あの時、刀を抜く方に気を取られて内懐ろに隙が出来た、それが未熟の致すところなのです。あの時に取落したんじゃない、あの時に抜き取られたのです。しかも抜き取った奴の面までちゃんと僕は覚えているんですが、今となってはどうにも行かんです」
  じっと、向う岸を睨(にら)んだ眼の中には、存外、自制もあれば、分別もあることを、田山白雲は認めました。果して落したものでない、抜き取られたものであるとすれば、抜き取った奴は何者か。何のためにしたことだ。居合を見事に抜かれたその仕返しに、こちらは懐中物を抜いてやったというのは、いたずらにしても細工があり過ぎているではないか。

      十二

  向う岸を睨みながら、柳田平治が、なおひとり言のように言いました、
「役人の傍に変な奴が一人いたのです、今となってわかるのです。なぜわかるかと言えば、あの、僕がこれを抜こうとした瞬間に、誰の心もみんな僕に向って集中するのはあたりまえなんで、みんなの心が集中するから、こちらも精神の統一が出来て、わざがやりよいのです。しかるにあの時、役人の傍に一人だけ変な奴がいて、何か僕の周囲(まわり)で、別な心持を持ってちょこまかしていたのが、いま思い当るのです、そいつが僕の手形を抜き取ったのです」
「人の手形を抜き取って何にするつもりだろう」
「何にするつもりか、それはわからんですが、単なる悪戯(いたずら)でもないでしょう。しかしです、もうそれと知った以上、詮議しても無駄ですから、僕は諦(あきら)めます」
「あきらめると言ったところで君、これから旅行免状なしに、どこへ行こうとするのだ」
「手形は無くても、道路があり、足がある以上は、行って行けないはずはないでしょう」
「そりゃあ理窟というものだ、君はまだ旅というものを知らない」
と、改めて田山白雲は、この青年に教訓してやる心持になりました。
  この青年は旅を知らないが、自分は知り過ぎている。旅というものは、足だけでできるものではない、行路の難というものは、山にあらず、川にあらず、ということを、一席聴かせてやることが、この際、後進に対する重大な教育だと感じないわけにはゆかないのです。
  そこで田山白雲が、この青年をとらえて、旅というものの教訓を始めようとする時に、この茶屋の前がまたにわかに物騒がしくなりました。
  それは、往還の要衝たる渡頭のことですから、相当賑(にぎ)やかなのは当然のことですが、賑やかと物騒とは調子が違います。只ならぬ人間の犇(ひし)めきが、今度はこちらの岸から起り始めたかのようです。白雲が、話題の鼻を折られていると、その前へ繰込んで来たのは、たしかに物騒な一行で、抜身の槍、突棒(つくぼう)、刺叉(さすまた)というようなものを押立てた同勢が、その中へ高手小手に縛(いまし)めた一人の者を取押えながら、引き立てて来たのであります。
  二人は、押黙って、その光景を見ないわけにはゆきませんでした。
  まず、真中に取りおさえられ、引き立てられている当人を見ると、それは、黒の羽二重(はぶたえ)の紋附を着て、髪は五分月代(さかやき)程度に生えて、色の白い、中肉中背の二十歳(はたち)を幾つも出まいと思われる美男でした。それが着物は引裂け、朱鞘(しゅざや)の大小をだらしなく差したまま、顔面にも、身体にも、多少の負傷をしながら、高手小手にいましめられて、引き立てられて来るのです。
  そうして、この茶屋の前を素通りしてグングンと引き立てられ、渡頭の方へと引かれて行くのは、舟で向う岸へ運ばれて行くものと見える。
  思いがけない兇状持ち、それを無言で見送った途端、田山白雲の頭に閃(ひらめ)いたのは、さいぜんの乗合者の話――南部の家老の娘をそそのかして連れ出したという、美男の、色魔の、若侍の物語でありました。今ああして縛られて行ったのが、どうしてもその当人と思われてならぬ。あれが捕われたのだ、それがもはや疑う余地のないほどピタリと白雲の頭に来ました。

      十三

  上来の事件とほぼ時間を同じうして、距離に於ては向う岸の渡頭から南へ一里余を隔てた、追波川(おっぱがわ)が湾入して、大きな沼池をなしているところの荒れ果てた石小屋の中の、一方へ空俵を重ねて、その上へ毛布を敷きこんで、寝そべっている若い女の子がありました。
  島田に結った髪がほつれてはいるけれども、花模様の着物の着こなしも、朱珍の帯のしめっぷりもきちんとはしている。だがまた、いやに艶めかしいところもあって、寝そべって、細くて白い、そのくせ痩(や)せてはいないで、少し蒼味を持った肉附のいい両腕を、双方から、ぼんのくぼあたりへあてがって、そうして甘えるような、また自暴(やけ)のような声で、
「つまんない」
と言いました。
  そうすると、つい、その戸じまり一重(ひとえ)次になった臨時お台所で、
「ツマンナイコト無イデス」
と言う、がんまりした、その上、多分の寸伸びを持った応対。
  見ると、そこに、不器用な手つきで、焜炉(こんろ)を煽(あお)って何物をか煎じつつあるその男は、これはずいぶん変っていました。まず眼の色、毛の色が変っているのみか、その体格が図抜けて大きいのが何より先に眼につきます。これは、月ノ浦に泊っている駒井甚三郎の無名丸から脱走して来たマドロスに相違ありません。してみると、無論、この一方に寝そべって、「つまんない」と投げ出した、妙にじだらくな若い女の子は、右のマドロスにそそのかされて、共に駒井甚三郎の無名丸を脱走して来た兵部の娘に相違ないでしょう。いや、マドロスに誘拐されたのか、マドロスをそそのかしたのか、そのことはよくわからないが、こうして一方が不貞腐(ふてくさ)れの体(てい)で寝そべっているのに、一方が庖厨(ほうちゅう)にいて神妙に勝手方をつとめているところを見れば――位取りの差はおのずから明らかであって、つまり、女が天下で、男が従なのです。女が比較的にヒリリとして、男が多分に甘い。
「ああ、つまんない、つまんない」
  女の方がいよいよ自暴(やけ)になって、ほつれた髪の毛を動かすと、大男が、
「アア、ツマンナイコト、チットモナイデス」
「マドロスさん、お前の言ったことはみんな出鱈目(でたらめ)ね」
「デタラメデナイデス、本当デス」
「一つとして本当のことは無いじゃないか、この海を一つ乗りきりさえすれば、外には直(じ)きに大きな黒船が待っていて、わたしたちが着けば、その大きな黒船の上から梯子(はしご)を投げかけてくれる、それに捉まって上ってしまいさえすれば、もう占めたもので、あの黒船の中は、またとても外から見たよりも一層大きくて、美しくて、その中にはキャビンというものがあって、室内いっぱいの大きな鏡があって、下には花のような絨氈(じゅうたん)が敷いてあって、御馳走は、朝から晩まで給仕さんが、世界中の有りとあらゆるおいしいものを、注文さえすればいつでも持って来てくれる、それから夜は、中へ入るとふわりと身体が包まって、どこへ隠れたかわからないベットというやわらかなやわらかな蒲団(ふとん)の上に寝かせてくれる、そうしてその大船が、千里でも二千里でも畳の上を行くように辷(すべ)って行って、そうしてやがて、異国の陸(おか)に着いてからがまた大したもので、どこを見ても、御殿のようなお家ばっかり、孔雀(くじゃく)や錦鶏鳥(きんけいちょう)が、雀や鶏のようにいっぱい遊んでいるのなんの言っていながら、黒船なんぞ、どこにも見えやしないじゃないか――」

      十四

  娘がずけずけと不平を並べるのを、男はハイハイと頭を下げて、
「モ少シノ辛抱デス、オ嬢サン、ココデ仕度ヲシテ、ソレカラ海ヘ出ルデス、海ヘ出ルト黒船ガ待ッテイルデス」
「当てにならないね、マドロスさんの言うことは」
「当テニナルデス、今ココヲ逃ゲ出スト、人ニ見ラレルデス、人ニ見ラレルト、黒船ニ乗込ム前ニ捕マッテシマウデス、モ少シノ辛抱カンジンデス」
「もう、わたし、辛抱がしきれない、誰かに見つけ出してもらいたいわ」
「見ツケラレルト怖(こわ)イデス、捕マルデス、縛ラレルデス、ソウシテ船ヘ送リ返サレルト、ブタレルデス」
「怖かないわ、駒井の殿様は、そんなにきつく叱りはしませんよ」
「船ドサンタチガコワイデス、ワタシ袋叩キニサレマス、間違エバ簀巻(すまき)ニシテ海ノ中ヘ投ゲ込マレテシマウデス」
「そんなこと、ありゃしませんよ。もしかして船頭さんたちが、そんな乱暴をした時は、駒井の殿様が差止めて下さるわよ。それから、金椎(キンツイ)さんは神様を信じているから、わたしたちがこんな間違いをしたって許してくれる。それから茂ちゃん――あの子は何をするものですか。ああ、わたし、無名丸へ帰りたくなってしまった、誰か迎えに来てくれるといい」
「ソンナコト、イマサラ言エタ義理デハナイデス」
「ではマドロスさん、早く黒船へ乗せて頂戴な、黒船をここまで呼んで来て頂戴」
「ソレ無理デス、黒船大キイ、コンナ川ヘ入ラナイ」
「でも、この川もずいぶん大きいじゃないの」
「サ、オ餅、焼ケマシタ、オアガリナサイ」
と言って、一方の火にかけた鉄桿の上から、マドロスが真黒いものを一つ取って、娘の枕元へ差出すと、娘はちょっと横を向いて、ちらとその黒いものを見やり、
「何なのそりゃ、マドロスさん、いやに真黒なもの、何なの」
「焼餅デス、サッキ渡シ場ノ船頭サンカラ、貰ッテ来タデス、色ハ黒イケレド、ナカナカオイシイデス」
「わたしには気味が悪くて食べられない」
「食ベナイト、オナカスクデス、オナカスクト身体弱ッテ、コレカラ黒船マデ行ケナイデス」
「だって、食べたくない」
「オアガリナサイ、無理ニ食ベテ元気ヲオ出シナサイ」
「食べられません」
と言って、娘はこちらを向いてしまいました。この黒い焼餅こそは、先刻、このマドロスが生命(いのち)がけで渡頭の船頭小屋へ闖入(ちんにゅう)して、そこから掠奪して来たものです。そうして逃げ出すところを、船頭父子に追いつめられて、命からがら逃げのびて来た、その光景を向う河岸の小高いところに据えつけていた遠眼鏡を取って、いちいち田山白雲に認められてしまった、あれなのです。
  そういう思いをして得て来た生命がけの糧(かて)を見ること、この娘さんは土芥(どかい)にひとしい。
「ああ、もう日が暮れるじゃないの、また今晩もこんなところで――ああ、わたし、いや、いや、誰か迎えに来て下さい、茂ちゃん――七兵衛おやじだといいけれど、あの人はいないし、田山先生だとなおいいけれど、あの先生も旅に出てしまった、誰か探しに来て下さい」

      十五

  自暴(やけ)をまる出しに、娘の調子が少しずつ声高(こわだか)になって行くのに狼狽したマドロスは、
「オ嬢サン、大キナ声ヲシテハイケナイデス」
「だって――今晩もまたこんなところで夜を明かさなけりゃならないとすれば、わたし、もうたまらない」
「モウ少シノ辛抱デス、日本ノ唄(うた)ニモ、オ前トナラバドコマデモ……トイウ唄アルデス」
「いやよ、マドロスさん、わたしはお前さんと苦労をするために、無名丸から逃げ出したのじゃなくってよ、お前さんが、あの大きな黒船に乗せて、御殿のようなキャビンの中で、王様のように扱われて、そうして異国の土地へ着けば、町々はみんな御殿のようで、金銀は有り余り、珍しい器械道具が揃(そろ)っていて、人間はみんな親切で、何から何まで結構ずくめの外国へ連れて行ってあげるなんて言うから、ついその気になってしまったの。それなのに、この御殿はどうです、まあ、この空俵の上へ毛布(けっと)一枚――ずいぶん結構なベットね。一晩は辛抱したけれど、もうできない、わたしは駒井の殿様のお船の方が、黒船に乗るよりよっぽどいい、逃げ出すんじゃなかった、駒井の殿様のお船に、おとなしくしていればよかった」
「オ嬢サン、ソンナ愚痴イケマセン、少シノ辛抱デス。デハ、ワタシ、アナタノタメニ唄ヲウタッテ上ゲル、コノ手風琴デ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲウタッテアナタヲ慰メテ上ゲルデス。今晩一晩ダケデス、明日コノ川下ルト海ニ出マス、海ニ出ルトソノ黒船ガ待ッテイルデス。サ、ワタシ、オ嬢様ノタメニ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲ何デモウタッテ上ゲルデス、オ望ミナサイ、外国ノ唄オイヤナラ日本ノ唄、ワタシタイテイデキルデス、八重山、越後獅子、コンピラ船々、追分、黒髪、何デモオ望ミナサイ」
と言ってマドロスは、立って一方の隅から手風琴を提げて来ました。これは無名丸備えつけの品を、行きがけの駄賃にかっぱらって来たものでしょう。
「いや、いや、唄なんか聞きたくありません、唄どころじゃないわ」
「船カラオ茶少シ持出シテ来マシタ、オアガリナサイ」
「何も欲しくありません。ああ、いやだ、だんだん外が暗くなる。帰りましょうよ、マドロスさん、ね、お詫(わ)びをして、駒井の殿様のところまで帰りましょうよ、直ぐにね、日の暮れないうちに、さ、いま直ぐに」
「イケマセン、イケマセン、モウ少シ落着クコトヨロシイ」
「いいえ、わたし、もう思い立ったら意地も我慢もないのよ、マドロスさん、お前、戻るのがいやなら、わたしは一人で出かけます」
「イケマセン、私、一生懸命ニ止メルデス」
  だらしなかった娘が、バネのようにはね起きると、ばったが飛びついたように駈け寄って抑えたマドロスの眼つきは、今までのウスノロではなく、燃えるような執着を現わしていました。
「放して頂戴」
「イケマセン」
「馬鹿!」
「イヤ、馬鹿デナイデス、オ嬢サン、アナタ考エ無シデス」
「お前がわたしを騙(だま)したんだわ、ああ、いやな奴。誰か迎えに来て下さるといいねえ、こういう時は田山先生に限るのよ、田山先生でなければ、このウスノロをどうにもできやしない!」
と言って、娘は力を極めてマドロスを突き飛ばしました。

      十六

  突き飛ばしたつもりだけれども、相手は飛ばないのです。
「オ嬢サン、アナタ、モウ、ワタシノモノアリマス、逃ゲラレマセン」
「ばかにおしでないよ、お前さんなんて、ウスノロのくせに」
「アナタ、モウ、ワタシニ許シタデス、ワタシモウ、アナタ離サナイデス」
「しつこい奴ね」
「アナタ、ワタシノモノデス」
「あ、畜生!」
  いかに争っても、これは問題にならない、というより、もう問題は過ぎているのです。娘は全くマドロスに抱きすくめられて、身動きすることもできない。そうすると、急に娘の言葉が甘ったるくなって、
「ねえ、マドロスさん」
「エ」
「そんなに苛(いじ)めなくてもいいことよ」
「ワタシ、チットモ、アナタイジメルコトアリマセン、アナタ可愛クテタマラナイデス」
「可愛がって頂戴。可愛がって下さるのはいいけれど、それほど可愛いものなら、わたしを大切にして頂戴、ね、ね」
「大切ニシテ上ゲルデストモ、ワタシ、命ガケデアナタヲ可愛ガルヨロシイ」
「では、わたしも、もう我儘(わがまま)を言わないから、無理なことしないで頂戴、ね」
「無理ナコトシタリ、言ッタリ、ソリャ、オジョサン、アナタノコトデアルデス」
「仲直りしましょうよ」
「ワタシ、仲直リスルホド、仲悪クアリマセン」
「ですけれど、マドロスさん、今晩はまた寒いのね、この毛布一枚じゃ、どうにもなりゃしない」
「火ヲ焚クデス、夜通シ火ヲ焚イテ暖メテ上ゲルデス」
「では、焚火をして頂戴」
「ヨロシイデス」
  マドロスは、唯々(いい)として命令に服従し、今夜の寒気を防ぐべく火を焚く前に、臨時のストーブの築造にかからねばならないことを知りました。しかし、この女を暖めるためには、そのくらいの労力や才覚は何でもない、つとめて保温を完全にして、今夜一晩の、この娘の歓心を買うことにつとめなければならない。それには、どうしても、いま現に利用しつつあるところのこの半壊の囲炉裡(いろり)を修理して、これに格子か、或いは櫓(やぐら)を載せて、そうして炬燵(こたつ)の形式にすることが最も簡単で、そうして効果のあることだと思い当ったらしく、無論もうその時はぐんにゃりとなった、抱きすくめた女の身体を放してやり、それから炉べりに向って新しい煖炉の仕かけのために、一心に工夫を凝(こ)らしはじめました。
  逃げるなら、この隙(すき)に――といったところで、どうにもなるものではありません。叫べば口を抑えられてしまい、動けば抱きすくめられてしまい、走れば追い越されてしまう。どうにもこうにも仕様はあるべくもないことを、娘は百も合点(がてん)して、そうしてなお一層、甘ったるく持ちかけるようです。
「ねえ、マドロスさん、お炬燵(こた)が出来たらば、手風琴を弾いて唄を聴かせて頂戴、何でもいいわ、あなたのお得意(はこ)のものをね。淋しいから陽気なものがいいでしょう、思い切って陽気な、賑やかな唄を聴かせて頂戴な。でも、淋しいのでもかまわない」
  こう言われて、マドロスが全く相好(そうごう)を崩し切って、六尺の身体が涎(よだれ)で流れ出しました。

      十七

  相好を崩し、涎で身体をただよわせながら、マドロスが言いました、
「デハオ嬢サン、スペインノ歌ヲ一ツ聞カセテアゲルコトアリマス、スペインハ日本人イスパニヤ言イマス、イスパニヤハ果物タイヘンオイシイデス、唄モナカナカ面白イデス、オ婆サンモ、若イ娘サンモ、ヨク唄ウアリマス」
  手風琴を取り直すと、ブーカブーカをはじめて、何かわけのわからぬ唄をうたい出しました。それを聞いていると、なんだか長く尾を引いた高調子の唄ではあるが、賑やかな音楽と言ったのに、妙に物哀しい音色を包んでいる。そこで、女がこう言ってたずねました――
「マドロスさん、今の唄、何という唄なの、なんだか琵琶を聞くような、悲しいところがあるわね」
「コレハフラメンコイウ唄デス、次ハタランテラ唄イマショ、ナポリイウトコロデ唄イマス」
とマドロスは前置きをして、また一種異様な音楽をはじめ出しました。
  この甘ったるいマドロスが、フラメンコだの、タランテラだの名題を並べては、わけのわからぬものをやり出すのですが、女には、もとより何が何だかわからないし、また得意でやり出している御当人のマドロスにも、その音楽の本質がわかってやるのだかどうだか、それも甚(はなは)だ怪しいものなのです。
  怪しいものには相違ないけれども、いいかげんの出鱈目(でたらめ)に奏(かな)でているものとは思われません。
  本来、このウスノロのマドロスの生国は何国の者だかわかっていないのです。御当人自身にも、自分の国籍は判断し兼ねるのですが、ともかくラテン系のどこかの場末で生れ、そうして物心つくと共に、労働と漂泊に身を委(ゆだ)ねてしまったものですから、国籍は海の上にあって、戸籍は船の中にあるものと心得ているらしい。従って、教育もなければ、教養もない。しかし、官能だけはどうやら人間並みに発達していて、特に音楽は好きでした。
  好きといったところで、高尚な音楽を味わうほどの教養はなし、また特に教養以上に超出する天才でもなし、ただ、横好きというだけで、見よう見まねに音楽をやることが、まずこの男の唯一の趣味でもあり、生活の慰安でもあったでしょう。
  ところが、地球上の津々浦々を家とするマドロスの境涯に、一つの恵まれた役得というのは、その国々に行われるところの異種異様の音楽なり、舞踏なりを、その国ぶり直接にひたることができるという特権でありました。
  ですから、この唄にしても、日頃やる怪しげな舞踏にしても、巧(うま)いとか拙(まず)いとかいうことは別として、ともかくも、みんな直接本場仕込みであることだけは疑いがないのです。本場仕込みと言ったところで、おのおのその国の一流の芸事に触れて来たというわけではないが、気分にだけは相当にひたって来ているのですから、今、スペインのフラメンコをやり出そうとも、ナポリのタランテラを振廻そうとも、それが物になっていようとも、いなかろうとも、ともかく、自分みずからその境地に身を浸して拾い取って来たのですから、一概にごまかしと軽蔑してしまうわけにゆかないのです。
  そこで、兵部の娘が、このマドロスの人品の下等なことと、その音楽の怪しげなことを忘れて、その怪しげな音楽を通じての、遥(はる)かの異郷の人類共通の声というものに、多少とも動かされざるを得なかったのでしょう。

      十八

  このマドロスのような下等な毛唐(けとう)めに、たとえ何であろうとも唆(そそのか)されて、共に道行なんということは、日本人としては、聞くだに腹の立つことのようであり、兵部の娘としても、たとえ常識は逸していても、官能はあるだろうから、好きと、嫌いと、けがらわしいのと、けがらわしくないのとは相当鋭敏でなければならないはずだが、それはさいぜん会話の時のように黒船の誘惑と、異国情調の煽動に乗せられた点もあるかも知れないが、他の大きな原因は、お松という同乗の朋輩(ほうばい)に対する反抗心と、それから駒井甚三郎に面当てをしてやりたいという心とが、そもそもの出発点ではあったけれども、もう一つ御当人の気のつかないのは、この音楽というものの魅力でした。
  この、野卑で、下等で、且つ眼色毛色まで変っている毛唐めの口車に乗ったのは、いつか知らず自分が、この毛唐の持つ音楽的魅力に捉えられてしまっていたのだということを、まだ当人は気がついていないのです。
  マドロスそのものはいやな奴、身ぶるいしたいほど嫌なウスノロではあるけれども、こいつに音楽をやり出されると、どうしても誘惑を蒙(こうむ)らざるを得ないのです。誘惑も深く進めば感激となり、やがては身心ともに陶酔、というところまで持込まれない限りはない。
  名の知れない、わけのわからない、聞いたことも見たこともない国の音楽が、女の心を、それからそれへと捉えて行くのです。そのメロディよりも、ハーモニーよりも、まずそのリズムに。
  兵部の娘は、日本の音楽は好きで、そうしてかなりの教養を持っておりました。それで、身近に茂太郎という絶好の伴奏者がいたものですから、それに仕込んだり、仕込まれたりして、音楽には異様に発達した何物かを備えていたと見てよいのです。
  ところで、その耳をもって、全く聞き慣れない西洋音楽――といっても、怪しい限りのマドロスの演奏ぶりを、いま言ったような下地へ受取っているうちに、それが根を持って来るという段取りでした。
  いま言う通り、唄の文句は全くわからないが、メロディを捉えることに於ては、この女に相当の教養があり、そのリズムに動かされると、心酔し易(やす)いことは、天才と言えなければ、病的なほどの鋭敏さを持っているのです。
  女はもう、しんとして聴き惚(ほ)れてしまいました。なにもかも忘れて、野卑で、下等で、醜悪な人間が奏(かな)でる、一種異様な異国情調の漂蕩(ひょうとう)に堪えられなくなってしまったと見えて、
「マドロスさん、何という曲だかわたしは全くわからないが、聞いていると泣けてしまってよ、泣かずにはいられなくなってよ」
と、その一曲が終った時、女は無性(むしょう)に涙を流しながら言いつづけました。
「何という唄だか知らないが、聞いているうちに、何とも言えない熱い情合いがうつって、たまらない。異国にも、やっぱり恋無情といったようなものがあるのね。日本の国と同じように、苦しい世間の中に、甘い恋路をたずねて、死ぬの生きるのともがいている、血色と肉附のよい若い男女が狂っているような、苦しい――けれども甘い、淋しい、哀(かな)しい世界が、まざまざと見え出して、わたし、たまらなくなってしまった」
仰向けに、だらしなく寝たまま、柄になく涙を無性に流しつづけて、女はこう言いました。

     十九

そうすると、どう勘違いをしたか、マドロスは急に申しわけのないような狼狽(ろうばい)の態度を示して、そうして哀願的に、
「オ嬢サン、ドウモ済ミマセンデス――ワタシ、悪イ気デシタノデハナイカラ御免クダサイ、オ嬢サンニ取ッテ置キノ珍シイモノ聞カセテアゲタイト思ッタデス、ソレデ、コンナ陰気ナノヲヤッテ、オ気ニ障(さわ)ッテ済マナイコトアリマス。コンドハ、モット賑ヤカナノ、嬉シイノ、陽気ナノ、ヤリマショウ、オキキナサイ」
  女は、その申しわけに答えて言うよう、
「そういうわけじゃないの、わたしが泣けたというのは」
「泣クノオ止シナサイ、ワタシ、コレカラ陽気ナノ唄イマス、今度ハ支那ノ、唄イマショウ、茂チャン、アノ唄、好キ、ソレ唄イマショウ、支那ノ……」
  この野卑にして下等なる音楽者は、それにしても、ここでもやっぱり国際的でした。前回の失敗の名誉回復をやり出すような意気組みで、今度は支那の音楽にとりかかろうという。
  国境に於てはだいぶ近くなったけれども、その内容のわからないことは、依然として同じこと。わからないながら、これはたしかに以前の異国のとは違って、陽気で、暢(の)びやかなところが多い。そうして最後へ持っていって、

チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン
ツアン
ツアン
チーカ、ロンドン、ツアン
パツカ、ロンドン、ツアン

と附けることは、女も以前からしばしば聞かされたものです。ことに清澄の茂太郎は、この口合いを喜んで、例の出鱈目(でたらめ)を日本語で唄い終っては、その最後へ、これに傚(なら)って、

チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン

をくっつけるのを得意としていたことを、女もよく知っている。これを聞くと、茂太郎もどきに自分も踊り出したくなるので、いつか心持も陽気になってまいりました。それを見るとマドロスは、娘のお気に叶ってその御機嫌を取り直したことを嬉しがって、なお馬力をかけながら、何ともわけのわからない支那唄を声高くうたって、手風琴に合わせながら、その終りに右の、

チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン

を折返すと、女もいい気持になって、ここぞと思うあたりで、先を越して、

チーカ、ロンドン
ツアン
パツカ、ロンドン
ツアン

をやり出すものですから、期せずして合唱の形となって、今の先とは打って変った和気と、陽気とが、飄々(ひょうひょう)としてただよい出したというものです。
  時に、日が暮れかかりました。
「オ嬢サン、提灯(ちょうちん)ヘローソク入レマス、オ待チナサイ、ソウシテ、今夜ワタシ、アナタノ淋シイノヲ慰メルタメニ、一晩中、器量一パイウタイマス、ワタシ、知ッテル世界ノ国々ノ唄トイウ唄、ミンナ歌イマス、イチバンシマイニ日本ノ、歌イマス……夜ガ明ケテモカマイマセン」
  マドロスは、すっかり興奮しきっている。女も以前のようにむずかりません。

     二十

そうしているうちに、北上川の沿岸に夜が来ました。
  夜というものは、ありふれた風景でさえも、少なくとも一世紀は昔に返して見せるものなのですが、この辺の風物そのものが、日中でさえすでに近世紀の代物(しろもの)ではないのですから、夜になると、蒙蒼(もうそう)として太古の気が襲うのは当然です。
  いいあんばいに、いつのまにか実に明るい月がかがやいていました。夜は風景を遡上(そじょう)して見せるけれども、月は時と人とをして、時間の上に超然たらしめる。

今の人は古時の月を見ざりしかど
今の月は曾(かつ)て古(いにし)への人を照らしたりき
古人今人、流るる水の如く
共に明月を見て皆かくの如けんと微吟して、大きな柳の木蔭から、この北上川の沿岸の蒙蒼たる広原の夜気の中へ、のそりと歩き出した黒い人影がある。と、その後ろに引添うようにして、もう一つの黒い小さい人影が現われました。
  一体にこの辺は、柳の大樹が多いのです。その謂(いわ)れを聞いてみると、源義経が奥地深く下る時に、笈(おい)に差して来た柳をとって植えたとか、植えなかったとかいうことで、今は大小高低、何千株の柳の老大樹が、断々離々として堤から原野へかけて生い連なっている。右の二つの人影は、その謂(いわ)れある柳の老大樹の林の中から身を現わして、堤を越え、原を横切り、小径(こみち)を越えて、柳の中に入り、また柳の中を出でつして来たものらしかったが、ここに至って柳の老大樹の林を全く後ろにして、そうして広い原の真只中へ露出しました。
  右手には翁倉(おうくら)、黒森(くろもり)の山々が黒く十三浜の方に続いている。その広い原の真只中で、さきほど月に向って唐詩を微吟したところの大きい方の黒い影が後ろを顧みて、
「君、恐山(おそれざん)という山は、よっぽど高い山かね」
  その声を聞くと、それは日中、渡頭(わたしば)を徘徊していたところの、下野(しもつけ)の足利の貧乏にして豪傑なる絵師田山白雲に相違ありません。そうすると、振返って呼びかけられた後ろの小さい方の黒法師が直ちに答えました、
「高い山じゃないですね、そう大して高いという山じゃないです」
  直ちにこう答えたのは、これも日中、渡頭で居合抜きの芸術を鮮かにやってのけて見せたが――旅行券では、すっかり悄然返(しょげかえ)ったところの恐山出身の柳田平治に相違ないのです。この二つの黒法師は、黒法師っぷりとしてかえって調和がありました。田山白雲はすぐれて容貌魁偉(ようぼうかいい)であるのに、柳田平治は普通よりは小柄です。白雲の刀も普通よりは長いには長いが、身体には釣合っている。柳田平治のはただ一本、長過ぎることは昼間と変らないのです。こうして二人が相前後して北上川の沿岸の月の平野の夜を、我語り、彼答えつつそぞろ歩いて行くのですが、柳田平治は今の返答に附け加えて、
「南部の恐山といえば、なかなか有名ですから、人はすてきに高い山だと思いますが、山はさほど高くはないのです。山は高くないけれども、形相(ぎょうそう)の変った山でしてね、恐山には地獄が九十九個所あって、極楽がたった一個所だと言われます、なんにしても恐山は登る山でなくして寧(むし)ろ下る山なのです」
と言いました。

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底本:「大菩薩峠17」ちくま文庫、筑摩書房
    1996(平成8)年8月22日第1刷発行
    「大菩薩峠18」ちくま文庫、筑摩書房
    1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 十」筑摩書房
    1976(昭和51)年6月20日初版発行
    「大菩薩峠 十一」筑摩書房
    1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本では、「…何にするつもりか、それはわからんですが、単なる」の後に、改行が入っています。
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第十巻」筑摩書房、1971(昭和46)年5月27日発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

--------------------------------------------------------------------------------●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
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