七十一
「いけませんでしたか」
とお銀様の声――まだ頭巾は外していないのです。
「いけないね、犬が邪魔をして」
と、これは隣室の返事。そうすると透かさずお銀様が、
「そうでしょうとも、昨夜からの犬のなき声が変だと思いました」
「変だ、変だよ、どうも犬が……」
「お気の毒ですねえ、あなたも焼きが廻りましたね、犬に邪魔されるようになっては」
「いや、上方(かみがた)の犬はまた格別だ」
「なに、格別なことがあるものですか、同じ畜類ですもの、犬がいけないのじゃない、あなたが衰えたのですよ」
「そうかなあ」
「でも、考えてごらんなさい、あなた、甲府の城下でも、江戸の真中ででも、いつ、いかなる場合に於ても、犬に吠えられたことのないというのが、あなたの御自慢ではなかったのですか」
「そう言えばそうだ」
「ところが、この長浜へ来ては、ああして昨晩も、また今晩も、犬につけつ廻しつされていらっしゃる」
と、二人の深夜の問答は、専(もっぱ)ら犬のことで持切りなのであります。
「そう言われれば、いよいよそうだ、拙者は今日まで、夜な夜な独(ひと)り歩きをしても、決して犬に吠えられなかった、犬に吠えられないのみか、時としては犬から慕い寄られたことさえある、それが、この長浜というところへ来てみると、最初の晩から犬の災難だ、それが癖になって、犬がついて廻るようだ、今晩もまたこの一念が出ると、不思議に近いところで犬が吠える――この一念が納まると、犬もまた吠え止む――こうして犬に吠えられたり、送られたり、とうとう獲物にはぐれて、ここまで犬に送りつけられてしまった」
「よくわかりましたよ、わたしがこうして耳をすましておりますと、あなたが、町のどの方面から、どの方面をとってお帰りになるかということが、筋を引くようにわかりました」
「犬の鳴き声によってだね」
「そうでございます」
「さあ、そうなってみると、もうこの長浜というところで夜歩きはできなくなるのだな、少なくとも、拙者というものは、夜な夜な長浜の町をさまようてみたところで、何の収穫もないことになるのだ」
「まあ、そんなものでございますね、お出ましになって出られないこともございますまいが、結局、犬に吠えられに出て、犬に送られてお帰りになるまでのことでございましょう」
二人の会話は暫く途切れておりましたが、お銀様はすでに解きかけた覆面を取去ろうともせず、そのまま机にもたれて寝に就こうとはしないのです。
隣室も、なお一層静かでしたが、暫くして、また刀架へ触るような物音がしました。
こちらも寝ようとはしないが、あちらもそのまま寝床へもぐり込んだ気色(けしき)もない。こちらのは、ただ静かにして机にもたれているだけですが、あちらのは、いったん刀をまた取卸したような物の気配です。いったん刀架にやすませた刀を、また揺り起したとなれば、これに向って、また相当の使命を托すると見なければならぬ。
転任か、或いは出動か。
七十二
今まではお銀様の居間の方の場合からのみ写しましたが、今度は改めて、隣室の方へ舞台を半ば廻してみましょう。
その室もやっぱり、だだっ広い、古びきった宿屋というよりは、古いも古い、徳川期を越した太閤の長浜時代の陣屋とか、加藤、福島の邸あとの広間とかいったような大まかな一室なのです。
そこの一隅に、もはや寝床がのべてあって、六枚折りの屏風(びょうぶ)が立てかけてある。こちらにもお銀様のと同じような火鉢があって、炭取も備わっている。机は隅の方に押片附けられて、座蒲団(ざぶとん)が真中のところに敷かれているが、その火鉢と座蒲団の程よきところに、丈の高い角行燈が一つ聳(そび)えている――という道具立てなのですが、これが、はっきり見えるというわけではありません。その行燈には灯(ひ)が入っていないのみならず、お銀様との隔ての襖もあいていないから、光というものは、ほとんどこの部屋に本来備わっていないところへ、外界からも漏れて来ないから真暗なのです。
その真暗なところへ、さいぜんから音もなく、真黒いいでたちの人が、風のようにひっそりと入って来て、火も掻(か)き起さなければ、燈火(あかり)もつけないで、隣室との応対をつづけているのですから、やっぱり光景そのものからいうと、黒漆崑崙夜裡(こくしつこんろんやり)に走るとか、わだかまるとか言うべきもので、何にもないところに声だけがあるようなものですが、小説の描写のためから言えば、はっきりと、それを写し出さないわけにはゆかぬ。
今、この黒漆の室にいる黒衣の者の姿は、昨晩、大通寺の玄関の松に近く、幼な児の捨てられているところで、鬼女を引きつけたところの第二の悪魔――第三の悪魔としての餓えたる犬と戦ったあれです。
大小二つの刀は、手を差延べれば届く床の間の刀架にかけて置いて、自分は、火鉢を前に、行燈を左にして坐ったままで、さきほどからの会話をつづけているのでしたが、この会話の間も、やっぱり覆面を外すことはしませんでした。
二つの室に相隣りして、無作法な男女が二人控えている。姿形こそはいずれも崩れてはいない。無作法とも、だらしがないとも言えないけれども、室内にあって、この夜中にまでも覆面を取らないですまし込んで会話をつづけている点だけは両々相譲らないのです。
一口に覆面というけれども、それは、ただ人間の面へ布を巻きさえすればよいというわけのものではない。覆面にも覆面の歴史もあれば、スタイルもある。同じものを同じように巻かせても、その人の人柄と、洗練とによって、都ぶりと、田舎者(いなかもの)ほどの相違もある。つまり着物にも着こなしの上手下手があって、同じものを着せても、その品に天地の好悪(よしあし)が出来ると同じことに、単に黒い布片を面に巻いただけのしぐさではあるけれども、そのまきっぷりにより、人柄そのものの活殺も生ずるというわけなのである。
ところで――この覆面の人の覆面ぶりは、かなり堂に入(い)っているものと見なければならぬ。今時の流行語をもってすれば、かなりスマートな覆面ぶりである。覆面をこの辺まで被(かぶ)りこなせることに於ては、相当その道の修練と技巧とを備えていなければならないので、どうかすると、覆面をしていない時よりは、覆面をしている生活の時間の方が長い、覆面界の玄人(くろうと)である
七十三
日本覆面史の、最近の幾多の実例によって、この人の被っている覆面ぶりを一通り検討してみると――
頭に角(つの)のついた気儘頭巾(きままずきん)ではない。
眼のところばかり亀井戸の鷽形(うそがた)に切り抜いた弥四郎頭巾でもありようはずがない。
弥四郎頭巾の裏紅絹(うらもみ)を抜いた錣(しころ)頭巾でもないし、そのまた作り変えの熊坂でもない。
錣のついた角(つの)頭巾でもなければ、しころなしの絹頭巾でもない。
紫ちりめんの大明(だいみん)頭巾でもなし、縞物の与作頭巾でもない。
大阪風の竹田(たけだ)頭巾でもなく、二幅錣(ふたのしころ)の宗十郎頭巾でもない。
直角的な山岡頭巾でなく、曲線的の船底頭巾でもない。
猫頭巾――抛(なげ)頭巾のいずれでもなく、まして女性の専用とした突?(とっぱい)頭巾のいずれでもなく、近代形の韮山(にらやま)頭巾でもない。
本来これは、どの形、どの式といって作ったものではなく、単に有合せの織物をとって、これを適宜に切らせて、独流に巻き上げたもの、その形から言ってみれば、ここから程遠からぬ叡山(えいざん)の山法師の初期に於て流行した、あの「裹頭(かとう)」という姿が最もよくこれに似ている。
物ごとはすべて、習うよりは慣れろですから、頭巾の巻きっぷりにしてからが、ああもしたら、こうもしたらと、見えに浮身をやつすよりは、数を多くかぶるに越したことはない。数を多くかぶっていさえすれば、ことさらにスマートを気取らなくても、一見して整った形になり、整った揚句に、ちょっと人を魅する姿勢が出来てくる。
これはあえて頭巾のかぶりっぷりに限ったことはあるまい。手拭一つ被(かぶ)らせてみたところで、野暮(やぼ)と粋とは争われない――況(いわ)んや大機大用に於てをや――というわけだ。
そこで、この人の覆面ぶりは慣れて、おのずから堂に入ったものがある。この点に於てはお銀様とても同じことです。二つながら、晴れてはこの眉目を世に出すことを好まざるもの、覆面を通してはじめてこの世相を見ようとも、見まいともしているもの。
暫くして、この覆面の男は、手をさしのべて、床の間の刀架から一刀を取外して膝に載せました。一刀といっても、わけて言えば小の方、或いは脇差の方といってもよろしいかもしれない。厳密に言えば、刀に対しては脇差といえる。大小を一対として分離し難いものとして見れば、その小の方だけを取って膝の上に載せました。
膝の上に載せると、やおらこれを引抜いてしまうと、いつのまに用意してあったか、傍らの乱れ籠の中から一掴(ひとつか)みの紙を取り出して、左に持ち換えて引抜いた脇差の身へあてがうと、極めて荒らかにその揉紙(もみがみ)で拭いをかけはじめました。拭いをかけるというよりは、紙をあてがって荒らかに刀を押揉んでは捨て、揉んでは捨てているようです。脇差一本を拭うとしては、荒らかな、そうして夥(おびただ)しい揉紙を使用して、その使用した揉紙をけがらわしいものでも捨てるように傍らへ打捨てて、次の紙を取り上げ、取り上げ、刀身を揉み拭うている。
特にこういう神経的の挙動にも相当理由のあることで、これは昨晩、思いがけずこの脇差一本で幾頭かの餓えたる犬を斬りました。畜生の血が残っている。それを揉み消し拭き消さんがために、かくも必死に、しかも相当神経的に刀身を拭っていると見るべきでしょう。
七十四
そうしているうちに、不意に一方の廊下でミシという音がしました。
僅かにミシという音だけでしたけれども、その気配は猫でもなければ鼠でもない、まさしく人間であって、板を踏む気配でありますから、その気配にお銀様も耳をそばだてざるを得ません。
前にいう通り、もう立派な深夜です。この二人のほかに、このだだっ広い屋敷に起きているものはないはずです。二人もその心持で、あたりの空気を動揺させない程度で会話をしていたのですが、この二人のほかに、もう一つ忍び足のあることが、たしかに今のミシという音で気取(けど)られました。
そこで、お銀様ほどの人が思わず耳を聳(そはだ)てていると、先方も、もう気取られたかと観念したのか、もうこの辺で術を破ってやろうとでも覚悟したのか、ミシ、ミシ、ミシと、本格的に廊下を踏んで、早くもお銀様のいるもう一つの部屋まで来てしまって、襖越しに、
「今晩は、もうお目ざめでいらっしゃいますか」
極めて低い猫撫声です。そして男の声なのです。
「誰ですか」
とお銀様が屹(きっ)と向き直りました。
「へ、へ、つい、その、ちょっと失礼をいたしました」
「誰ですか、あなたは。何のためにこんなところへ来たのですか」
「へ、へ、ついその、何しましたもんでございますから」
「わかりました、お前はここへ盗賊に来たのですね」
「いや、そういうわけではございませんが、つい、その、へ、へ」
「お帰りなさい、お前たちにつけ覘(ねら)われるような、わたしたちではありません」
お銀様は、いつもの見識で手強く叱りましたが、相手もまたそれで退くくらいなら、ここまでは出て来ません。
「そうおっしゃらずに、ちょいとお目にかかって申し上げてえことがございまして――ここをあけましてもよろしうございましょうか、御免こうむりまして」
いよいよ人を食った猫撫声で、こんなことをたらたら言いながら、早くもスルスルと襖へ手をかけて、二三寸あけてしまいました。
お銀様はまたその方を睨めたけれども、少しも動揺しません。
「没義道(もぎどう)なことをすると、お前のためになりませんよ」
「へ、へ、実はな、お嬢様――」
お嬢様と言ったからには、相当にこちらの人柄に理解があるに相違ない。盗人(ぬすっと)に来たということは明らかだが、それにしても、このいけ図々しい猫撫声を聞いていると、ただ物質が欲しくて忍び込んだものとのみは思われない。
もはや、こっちを呑んでかかって、次第によっては説教の一つも試みようというはらがあって来た奴に相違ない。それだけに油断のならない相手であるとは、お銀様も気がついたには相違ないが、お銀様にもまたたのむところがあると見えて、あえて驚かないのは前と同じです。ところで頬かむりが、
「へ、へ、お嬢様、わっしはこう見えても盗人に来たんじゃごわせん、お嬢様をお見かけ申して少々合力(ごうりき)にあずかりてえとこう思いましてな――それをひとつ聞いていただかなけりゃなりません」
と、いよいよ猫撫声で、膝小僧をじりじりと進めて、乙にからんで来るのです。
七十五
「わたしは、お前のような人に頼まれて上げる義理はない、何か用があるなら、夜が明けてから出直しておいでなさい」
とお銀様は、あたりまえの言い分でたしなめますと、
「そうおっしゃるものじゃございませんよ、お嬢様――」
松助のやる蝙蝠安(こうもりやす)のような、変に気取った声色(こわいろ)をして、襖をもう二三寸あけました。そうすると、お銀様の部屋の行燈(あんどん)の光で、忍んで来た奴の正面半身が見えました。
着物は尋常の二子(ふたこ)か唐桟(とうざん)といったようなのを着け、芥子玉(けしだま)しぼりの頬かむりで隠した面(かお)をこちらに突き出している。
以前に覆面のことがあったから、ここで、頬かむりに就いても一応の知識がなければならないことになる。覆面と言い、頭巾というものは、特に一定の型があって、一応は縫針の手を通さなければならないように出来ているのであるが、頬かむりは違います。
頬かむりというものは、通則として手拭を使用することを以て、今も昔も変らないことになっている。手拭というものは本来、頭巾の代用のために、覆面の利用のために出来ているものではない。木綿を三尺に切って、相当の形に染め上げ、その名分よりすれば手を拭うことにあるのですが、その職分は決して、手だけに専門なるものではない。面も拭えば、足も拭うことがある。時としては風呂敷の代用もつとめれば、繃帯の使命を果すこともある。
演劇で、これをカセに使って見物を泣かせることもある。仁義のやからは、これが一筋ありさえすれば、日本国中を西行(さいぎょう)して歩くこともできる。どうかすると、このものを綴り合わせて浴衣(ゆかた)として着用し、街道へ押出すものさえあるのです。
その効用の一つとして、これを即座の覆面に利用して、称して頬かむりという。本格の覆面にもかぶりこなしの巧拙がある以上は、この臨機応変の頬かむりにも、相当の型が現われなければならない道理です。或いは髷尻(まげじり)の出しっぷりに於て、鼻っ先のひっかけ具合によって、特に最も微妙にその人格(?)に反映して、浮気女を活(い)かしたり殺したりすることさえある。
大臣かむりといってお大名式なのもある。吉原かむりといって遊冶郎(ゆうやろう)式なのもある。上の方へ巻き上げた米屋さんかむりというのもある。濡紙を下へ置いてその上へはしょり込んだ喧嘩かむりというのもある――今この場に、こいつがかぶって来たのは、鼠小僧かむり、或いは直侍(なおざむらい)かむりというやつで、相当江戸前を気取ったところの、芝居気たっぷりのかむり方でありました。
男女二つの異形(いぎょう)なる覆面の場面へ、新たに一枚の頬かむりが加わったのです。
「へ、へ、お嬢様、あなたは御大家のお嬢様でいらっしゃいます、折入って一つのお願いの筋があって参りましたんで、というのは、ひとつお嬢様にぜひとも、買っていただきたい品がございましてな。決して盗み泥棒をしようのなんぞという悪い料簡(りょうけん)で上ったわけじゃあございません」
何といういや味なイケ図々しい物の言いっぷりだろう。
ところが、お銀様も存外、落着いたもので、静かに、しかし強く、
「お帰りなさい」
七十六
ところがいやな奴は、いよいよしつこくからんで、
「そう権柄(けんぺい)におっしゃるものじゃございません、せっかく、こうして危ない思いをして、人目を忍んでお願いに上ったんじゃございませんか、そこは、何とか三下奴(さんしたやっこ)を憫(あわ)れんでやっておくんなさいましよ。実はねえ、お嬢様、ぜひあなたにひとつ買っていただいて、それを、このしがねえ奴が路用にして、これから国へ帰ろうてえんでございますから、お願いですよ、とにかく、代物(しろもの)をひとつごらん置きを願いましょうかな」
と言って、頬かむりの奴が、後ろの方へ手をやって掻(か)いさぐったかと見ると、何か一物を取り出して、お銀様の部屋の中へさし出しました。見ると、それは一本の脇差でありました。脇差といってもなかなか本格の渋いこしらえがしてあって、特に艶(つや)を消して道中差にこしらえたもの、一見して相当の品ではあるらしい。この脇差を一本、お銀様の目の前に投げ出した頬かむりの男は、
「へ、へ、へ、これをひとつ、あなた様に買っていただいて、しがねえ三下奴の国へ帰る路用に当ててえと、こう思うんでがんしてな……」
「そんなものは、わたしには用はありません、いいかげんにしないと人を呼びますよ」
「あ、あ、あ、そいつは、いけません」
と、頬かむりの奴は仰山らしく押える真似(まね)をして、
「野暮(やぼ)なことをして下さいますな、ここで声を立てられちゃ、事こわしでございますよ、わっしのためにも、あなた様のためにもな。まず、まあ、ゆっくり落着きあそばして、その品をお手にとるだけも取って、篤(とく)とごらん下し置かれたいものでげす、品物を御一覧下さった後に、買ってやるとか、やらないとか、おっしゃっていただけば、それでよろしいんでございますよ――お手に取ってひとつ見ていただきてえ」
「そんなものを見る必要はありません」
「必要とおいでなすったね、必要があるかないか、代物(しろもの)をひとつ見ていただいた上でなけりゃ、相場が立たないじゃございませんか。何ならひとつ手取早く、わっしの方から品調べをしてごらんに入れ申しましょうか。まずこの目貫(めぬき)でございますな、これが金獅子ぼたんでございますよ、もとより金無垢(きんむく)――しかも宗a(そうみん)というところは動かないところでげして、それからはばきが金、切羽(せっぱ)が金、しとどめが金――鍔(つば)が南蛮鉄に銀ぞうがん……小柄(こづか)は鳥金七子地(とりがねななこじ)へ金紋虎(きんもんとら)の彫り、それから塗りがこの通りの渋い三斎好み、中身は備前盛光(もりみつ)というんだから大したものでございますよ。今時、御三家の殿様だって、これだけのものは、めったにゃあ差しません、こしらえだけを外して、そっくり捨売りにしたところで、あなた、相当のものでございますぜ」
と言って、頬かむりは、いちいち指さしをしながら、お銀様の方へ向って、脇差のこしらえの説明をしている。代物そのものは、能書通りのものかどうかわからないが、こいつの喋(しゃべ)るこしらえの知識だけは附焼刃に違いない。それから一段、声を落して言うことには、
「それはそれとして、お嬢様、ここんところをひとつ篤(とく)とごらん下さいまし、ここの栗形の下のところに、下り藤の定紋(じょうもん)が一つ打ってござんす、これが、そのやはり申すまでもなく金無垢で……もちろん、これをお差料になすっていたお方のお家の御紋に相違ございません、この通り金無垢で、下り藤の定紋がこの鞘に一つ打ってござんす」
七十七
頬かむりの忍び男が、お銀様の眼の前に投げ出した脇差を指しながら、こんなことを言い出したので、お銀様が思わずちょっと向き直りました。
「なに、下り藤の定紋が?」
「はいはい、その通りでございます、お見覚えはございませんか――どうか篤とお手にとって御一覧を願いてえもので……」
「ああ、それは――」
とお銀様が、はじめて少し本気になったようです。ついにこのいけ図々しい奴の猫撫声に、どうもある程度まで釣られてしまったらしい。そうして、手に取ることこそしないけれども、改めてじっとその脇差を見詰めましたが、
「これは、わたしの父の差料に違いありません、それをどうしてお前が……」
「それそれ、そうおいでなさるだろうと、実は最初(はな)から待っていたんでございます――そうおいでなさらなくちゃなりません。いかにも、これは甲州第一の物持、有野村の藤原の伊太夫様の道中のお差料なんでございますよ。そうと事がわかりましたら、あなた様に相当のお値段でお買上げが願いてえ、なあに別段、いくらいくらでなけりゃあならねえと申し上げるわけじゃございません、お目の届きましたところで手を拍(う)ちやしょう」
「どうして、お前がこれを持っているのです、ところもあろうに、こんなところまでこれを持って来た筋道がわからない」
「へ、へ、へ、筋道とおっしゃいましても、甲州から諏訪(すわ)へ出て、木曾街道を御定法(ごじょうほう)通りに参ったんでございます、あなた様の親御様でいらっしゃる伊太夫様のお枕元から、このしがねえ三下野郎が直々(じきじき)に頂戴して参ったんでございますよ、どうかひとつ、思召(おぼしめ)しでお買上げを願って、それを三下奴の路用に恵んでいただきてえんでございます」
「どうして手に入れたか、それを言ってごらん」
「どうして手に入れたかってお聞きになりますが、これだけの品を頂戴いたすまでには、相当の苦心てやつもあるでござんしてな」
「それを一通り話してごらん、筋が立ちさえすれば、買ってあげないものでもない」
「実はねえお嬢様、あなたのお父様とお見かけ申して、こんな品物をいただくつもりじゃなかったんでございますよ、もっと右から左へ融通の利(き)く、山吹色の代物ってやつをたんまりと頂戴に及びたかったんでございますがねえ、いや、さすがに、大身の旦那だけあって、お身の廻りの厳しいこと、御当人は鷹揚(おうよう)のようでいて、更に御油断というものがございません、それにあなた、附添のが野暮な風(なり)こそしていらっしゃるが、これがみんな相当、腕に覚えもあれば、眼のつけどころも心得ていらっしゃるんで、さすがにこのがんりき――」
と言いさして、ちょっとばかりテレたが、テレ隠しに続けて、
「さすがに、この三下奴の手にゃ合いませんで、初手(しょて)の晩の泊りには、瓦っかけをしこたま掴(つか)ませられちゃいやして、いやはや、その名誉回復と心得て、二度目に出かけてみやしたが、用心いよいよ堅固、命からがらこの一腰だけを頂戴に及んでまいりやしたが、明晩あたり、改めてまたお礼に上らなけりゃなりません」
「いったい、わたしのお父様はどこにいらっしゃるのです」
と、お銀様の方から改めてたずねました。
七十八
「あなた様のお父様には、わっしゃ、美濃の関ヶ原でお初にお目にかかりました、一昨日(おととい)のあけ方のことでございます」
「関ヶ原で?」
「はい――実あ、その、なんでげして、これが甲州第一の物持でいらっしゃる有野村の伊太夫様だなんていうことは、夢にも存じやせんで、お目にかかっちまったんですが、ようやく昨日の晩になって、はじめてそれと伺いまして、驚きましてな」
「そうして、今はどこにいらっしゃる」
「関ヶ原から、昨晩は大津泊りでいらっしゃいました」
「大津――」
「はい、大津の宿で、はじめてそれと伺いまして、なるほど、がんりきの目は高いと、こう味噌をあげちゃいましたようなわけなんでございましてな」
「何のために、お前さんは、わたしの父親に逢ったのですか」
「何のためにとおっしゃられると、ちと変なんでげしてな、行当りばったりに、袖摺(そです)り御縁というやつで、つい、関ヶ原の夕方お見かけ申しちまったんですが、今も申し上げる通り、これが甲州第一の物持の旦那様と知ってお見かけ申しちゃいましたわけじゃあござりませぬ、ただ行きずりに、こいつは只者でねえと睨(にら)んだこの眼力にあやまちがなく、お跡を慕ってみますてえと、果して大ものでござりましてな」
「では、お前は、わたしのお父様の旅をなさるあとをつけて、何か奪い取ろうとしたのですね」
「いや、その、ちょっとね、ちょっと行きがかりに、今いう、その、路用てやつを少々おねだり申したいと、こう思いましたばっかりなんでげすが、それが、その、みんごとしくじって、瓦っかけを抱かされちまったのが一代の失敗(しくじり)、これじゃ商売冥利(みょうり)に尽きるといったようなわけで、再挙を試みたが、さいぜん申し上げる通りの用心堅固、大津まであとをつけて、やっとの思いでこの一腰(ひとこし)を拝領に及びました、そこで様子を窺(うかが)って見るてえと、この大物の身上がすっかりわかりました。わかりましたけれども、このうえ押せば、こっちの足もとが危ない、それ故(ゆえ)よんどころなく、この一腰だけを拝領に及んで引上げてまいりました。そこで、改めて今度はそれを御縁に、お嬢様のところへ伺いを立てに参上致した、と、こういったわけなんでございます」
「では、わたしの父親の方は用心堅固で、どうにもならないから、わたしの方は女の身だからどうにでもなると思って来たのかい」
「そういうわけじゃございませんが、そこは親子の間でいらっしゃいますから、何とかまたお話合いもできそうなものと、この一腰を証拠に、こうしておあとを慕って参りました、上平館(かみひらやかた)てのへお伺いしてみたんでげすが――お嬢様は長浜へお越しになっていらっしゃる、てなことをお聞き申したものですから、こうおあとを慕ってまいりました。どうかひとつ、この一腰をお買求めが願いたいんでげして……」
「いけません」
とお銀様が、きっぱりと答えると、頬かむりのままで男が少し居直りの形になって、
「じゃあ、これほど頼んでもお聞入れがねえんでございますか」
いよいよ紋切型の凄(すご)みにかかろうとすると、もう一間隔てた向うの座敷から、
「その脇差とやら、買ってやるからこっちへ持って来い」
氷のような声が聞えました。
七十九
この不意打ちの、冷たい一語の思いがけない抜討ちに、さすがの説教もどきも、骨までヒヤリとさせられたような狼狽(ろうばい)ぶりで、
「え、え、何とおっしゃいます」
思わず向うの座敷を見込んだのですが、それは秋草を描いた襖(ふすま)のほかに何物もないのです。しかし、言葉はまさにこの秋草を描いた襖のあなたから迸(ほとばし)り出たのに違いないのですから、一旦は狼狽したが、もとより相当な奴ですから、ここらで内兜(うちかぶと)を見せるようなことはない。こうなると、意地にも強気を見せるものごしになって、
「どなた様か存じませぬが、この一品を買ってやるとおっしゃいましたのは、そちら様で……」
「買ってやるから、こっちへ持って来いよ」
「いや、わかりました、有難い仕合せで。なにも、お買上げくださりさえすれば、どちら様で悪いの、こちら様でなければならないのと申す次第ではござりませぬ」
と言って、その一腰を取り上げると中腰になりました。
相当薄気味の悪い声ではあるけれども、主のわからない方面の買主に向って、この頬かむりの野郎があえて人見知りをしないらしい。
「まっぴら、ごめんくださいまし」
但し、あちらの秋草の襖の中の、新しく出でた買主のもとへ行くには、どうしてもこの女王の居間を失礼して突切らなければならないことになっている。いや、後戻りをすれば、廊下を廻って行けるには行けるに相違あるまいが、あちらからこう出られてみると、こっちの行張り上、また廊下をうろうろして出戻りなんぞは、第一、舞台面の恰好がつかないとでも思ったのか、それで敢(あ)えてこの女王の居間を失礼して、突切らせてもらって、新しい買主に面会を求めようと、小腰をかがめて進入してきたのは全く許せない挙動だが、お銀様はまだ、冷然としてそれを咎(とが)めようともしないで、眼の前を通る代物(しろもの)を空しく看過しておりました。
そこで、いよいよ図にのった、この白徒(しれもの)が、「まっぴら、ごめんくださいまし」と、色代(しきだい)するような手つきをして、膝行頓首(しっこうとんしゅ)、通り過ぎて行く。その形がまた、いよいよたまらない芝居気たっぷりでもある。
こいつが、お銀様の父伊太夫を関ヶ原で狙(ねら)った、がんりきの百というやくざ野郎であることは申すまでもありません。
根が、このがんりきというやくざ野郎は、こういう色男気取りに出来ている。たちばな屋とか、よこばな屋とかの切られ与三(よさ)といったような芝居気が身についている男なのです。だから、これを街道筋の馬子上りや、場末の長脇差くずれと見られては、当人納まらないだろうと思われる。
そこで、こいつがこんなふうのしなをしながら、女王の眼前を突切って、次の間を隔てる襖の前へ来ると、また御念入りにかしこまって、携えた売り物の一腰を敷居際へ置いて、例の白々(しらじら)しいせりふを並べ出しました、
「どうぞ、なにぶん御贔屓(ごひいき)にお買上げを願いたいもんで……しがねえ三下奴(さんしたやっこ)のために、路用のお恵みが願いたいんでげして。さいぜんもお聞及びでございましょうが、彫りと言い、こしらえと言い、要所要所はいちいち金むくでございまして、いぶしがかけてあるんでございます、それに中身が備前盛光一尺七寸四分という極附(きわめつ)きでございます、出所はたしか過ぎるほど確かな物でございまして、どなたがお持ちになったからといって、かかり合いの出来るような品たあ品が違います」
八十
まだ中からも襖が開かず、こちらからもこれを押してみようとはしないのです。こうして、がんりきの野郎は、図々しくも先方の出ようを見ていると、中で、
「ちょうどいいところだ、脇差が一本欲しいと思っていたのだ」
「いや、どうも恐れ入りました、こうすんなりお買上げが願えるとは有難い仕合せなんでございます、どうかひとつ、こしらえ、中身、お手ごろのところ、十分にお目ききが願いたいのでございます」
「見ないでもよろしい、中身は盛光だと言ったな、盛光ならばまず不足はない、置いて行かっしゃい」
「では、お引取りを願うことに致しまして……」
買手は置いて行けと言い、売方はお引取りをねがいましょうと言いながら、まだどちらからも襖を開こうとはしない。当然その仲立ちをすべきはずのお銀様も、事のなりゆきを他人事(ひとごと)のように見流しているだけで、あえて中に立って口を利(き)いてやるでもなければ、ましてや、わざわざ立ち上って隔てを開いて、取引の融通をつけてやろうでもない。
そこで、この場の空気はテレきってしまいました。テレきったけれども、その底には相当の緊張したものが流れている。三人ともに白けきったけれども、三すくみではない。それぞれ一歩をあやまてば取返しのつかない綻(ほころ)びが転がり出すことをよく心得ていながら、表面はテレきって、それを、何と取りつくろおうともしないところに、剣(つるぎ)の刃を渡るような気合がないでもない。
このままでは際限ないから、そこは、新参の押しかけ客分としての引け目で、がんりきの野郎が左の手を延べて、
「御免を蒙(こうむ)りまして」
と言って、秋草の襖へ手をかけたのです。そうしてするすると二三寸、最初、お銀様の座敷の第一関を開いた時の要領で、二三寸あけて見ると、意外にも中は真暗でした。
はて、人がいて、かりにも物を売ろう買おうと声がかかってみた以上は、起きていたのか、或いは寝ていても起き直って、どちらにしても燈心(とうすみ)ぐらいは取敢えず掻(か)き立てていなければならないはずなのに、中は真暗であって、且つその暗闇を救うべくなんらの努力をも試みていないらしいことは、薄気味の悪い上に、更に薄気味の悪いものになっている。
だが、こっちは、こうなってみると意地にもひるめない。
がんりきの野郎は、意地を張って、一段としらばくれた調子で、
「では、その代物(しろもの)のお引取りを願いましょうかな」
と、暗い中へ向って馬鹿丁寧に一つ頭を下げてから、額越しに闇の中をじっと見込んだ身のこなし。やっぱり相当なもので、真暗い中から物を言っている先方の種仕かけを、上目づかいに吟味しているものらしい。
こういう奴になると、真暗闇の中を見込んで、物を見る眼力がかなり修練されているものです。夜を商売とするこいつらの眼で見ると、室内のからくりにも相当の当りがつかなければ商売になるまい。ところが――かりにその眼力を以てしてからが、眼の届かないのは、六枚屏風が一つ眼前にわだかまっていて、応対を遮断していることでした。暗を見透す眼があっても、屏風一重を見抜く力はない――そこで少々まごついていると、屏風の中から、
「いったい、いくらで売りたいのだ」
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底本:「大菩薩峠17」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年8月22日第1刷発行
「大菩薩峠18」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 十」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
「大菩薩峠 十一」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本では、「…何にするつもりか、それはわからんですが、単なる」の後に、改行が入っています。
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第十巻」筑摩書房、1971(昭和46)年5月27日発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月15日作成
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